恥ずかしさレベル

最近、挨拶ができるようになってきた。ここで言う挨拶とは、「おはよう」とか、「さようなら」とか、「Hello. My name is Ken」などの、日常で誰かに出会ったときや、別れるときに交わす言葉のことである。
これが以前はできなかった。
挨拶を知らなかったわけではない。つまり、挨拶という習慣を知らなかったわけではない(言葉を知らなかったわけでもない)。恥ずかしかったから、うまく言えなかったのである。
以前は挨拶に限らず、決まり事すべてが恥ずかしかった。これから行うことをお互いに了解しあっている、というような状態で、何かを言ったりやったりすることができなかったのである。そのため、「挨拶」という最低限の予定調和さえ拒否していたのだ。
だが例外として、小遣いをもらう時だけは恥ずかしさに耐えながらも、「ありがとうございます」と言っていた。これは、挨拶をする恥ずかしさよりも小遣いをもらえないことによる苦痛のほうが耐えがたい、と判断していたためである(言わないと小遣いを渡してもらえなかった、という事情がある)。
そして最近は、いつでも(小遣いをもらわなくても)挨拶ができるようになった。これは、大人になるにつれ、挨拶をしないことによる不利益が大きなものになってきた、という面もあるが、「何を恥ずかしいと思うか」が変化したという点が一番大きいだろう。


恥ずかしさにはレベルがある。以前は挨拶をすることが恥ずかしかった(これを恥ずかしさレベル1とする)が、今は「挨拶をすることを恥ずかしがっていると思われる」ことが恥ずかしい(これを恥ずかしさレベル2とする)。なので今はむしろ以前より堂々と、元気よく挨拶をする。これは、エロビデオを借りる際におどおどしている人が恥ずかしさレベル1、えらそうにしている人が恥ずかしさレベル2であると思ってもらえばわかりやすいだろう。
ところで、恥ずかしさにレベル3があるとするならば、「何かすることを恥ずかしがってると思われることが恥ずかしい、と思われることが恥ずかしい」というようなものになる(普通にありそうだが)。
これは、なにかをする際、恥ずかしがっていると思われることが恥ずかしいために無理して堂々とそれを行うこと(レベル2状態)がばれてしまうのが恥ずかしいために、わざと恥ずかしがっている状態である。なので、表面上はレベル1と同じだ。そしてレベル4になると、表面上はレベル2と同じになる。つまり、恥ずかしさのレベルはどこまで行こうが、表面上はレベル1か2しかない。


人は、内面で恥ずかしさのレベルがくるくると上昇した時、それが奇数であれば恥ずかしがって見せ、偶数であれば堂々として見せるのだろう。どちらの態度をとるか、選択は二つに一つでも、その内側では恥ずかしさのスロットがぐるぐる回っているのである(たまに回しすぎて挙動不審になっている人がいる)。