欲深き優柔ふんだんな者

何もしないうちに一日が終わってしまうと寂しい。同じく、何もしないうちに夏が過ぎてしまうと寂しい。時間は待ってはくれない。だがこれはこれで良いことだ。不可抗力で過ぎ去った一日や夏を見て、ああ、寂しいな、などと思っておれば良いのだから。

何もしないうちに大学を卒業してしまうと寂しい、という感情もあるが、その気になれば卒業しないことも可能だ。これは優柔不断な者にとって実に都合が悪い。
他にも、出かけて何もしないうちに家に帰るのは寂しい、という感情がある。
寂しいなら寂しくなくなるまで何かすれば良いではないか、と思うかもしれないが、欲深い者は何をしても帰る時には寂しいのだ。そう考えてみたら、優柔不断な若者に門限があるのは当然のことである。門限が無ければ何もすることが無いくせに(金も無いくせに)夜の街をふらふらし、時間を無駄に浪費し、そのうち不良かチンピラかサラリーマンか中年になるに決まっているのである。
といっても、優柔不断でない若者にも門限があるのは理不尽である。その場合、大人は子供に不当な門限をかけていることになる。だが、自分は優柔不断でない、と思い込んでいる若者に門限がある場合も、当人は理不尽だと感じるだろう。なので「若者は全員が優柔不断だ」ということにしておけば、不当に門限をかける恐れは無い(すでに多くの大人が実践していることである)。

話がそれたが、優柔不断な者は欲が深く、いつまでたっても満足しないということが言いたかった。そういう者が何かを決めるには、強制的な縛りや、「もうこうするしかないっ!」という状況が必要なのだ。

人間ならば誰しも幾分かの優柔不断さを持っているだろう。それを許しているのは、時の流れや寿命があるからかではないだろうか。もしそれらの縛りから解放されてしまったら、優柔不断な者にとっては地獄でしかない。
若者だってそう思っているはずである。もしいくらぶらぶらしても良い状況が与えられていたとしたら、いつもの気分でぶらぶらしていられれないだろう。いつかは終電が来てしまう、お金が尽きてしまう、そういう縛りがあるから夜がなぶらぶらしていられるのである。終電など問題ではないしお金も尽きないという状況でぶらぶらするのは、きっと虚しいものがある(何もすることが無い、という条件も必要だが)。
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優柔不断を自覚する者は想像してみて欲しい。
ああ夏が過ぎたな、と思っているところに現れるタイムマシン。
ぼくならすぐに破壊する・・・と言いたいところだが、優柔不断な者はこれを破壊できないのだ・・・。くれぐれもタイムマシンなど発明しないで欲しい。