ドッグヴィル(asin:B0002B5A5M)

アメリカ・ロッキー山脈の村に、ひとりの女グレースがギャングに追われて逃げ込んでくる。初めは彼女をいぶかしむ村人たちだが、2週間で村人全員に気に入られることを条件に村に留まることを承認。献身的な肉体労働をこなすグレースだが、警察に手配されていることが発覚し、事態は急転する。Amazon.co.jp

以下、ネタバレを含む感想(もうこの映画を見た人向け)。
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二度観た。二度目で思ったのは、グレースがあの投票の時に町を去ることになればあんなラストにはなかったし、グレースもドッグヴィルの住民も「いい人」であれたのに、ということである。それでは映画にならないだろうが。
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投票した時点でドッグヴィルの住人はグレース(他者)に対して「寛容さ」を見せた(グレースを村に住まわせてやることにした)。だがそれはマザー・テレサのような見返りを求めない無尽蔵の寛容さではなかった。「住ませてあげている」という優越感と引換えの「寛容さ」であった。
全てを許すと言われている(かどうかは知らないが)マザー・テレサ(や夜回り先生など)の寛容さは傾かないが、住民の寛容さは傾く「天秤」である。つまり、「優越感」と「グレースを住ませてやっている負担」とのつりあいが取れなくなれば、優越感の方に、更なる付加価値を置く必要がある。
負担は、グレースが警察に手配されたことにより増え、付加価値としてグレースは働き出した。だが警察(しかもギャングの息がかかっている)の捜査がドッグヴィルに及ぶたび、住民の負担(グレースを住まわせてやってることに対しての負担)は増え、その度グレースも労働時間を増やしたりと努力はしたが、それも限度があった。天秤は(もちろん住民の負担の方に)傾き続け、まるで当然の結果のように、グレースはとうとう「ひどい目」にあわされるようになる。
グレースを「通報」できるという状態になってからは、もうひどいんだこれが(いきなりこんな文調にもなるというもの)。男は「通報」を匂わせグレースを思い通りにするし、女は反抗できないグレースを徹底的にいじめ抜く。素直に(と言うのも変だけど)人間って醜いなぁと思う(その意味で15Rにしてもいいんじゃないか、と思うくらい)。前半で隔離された村の人間関係が濃密に描かれていただけに、それは実に生々しかった。
いつでも「通報」できるということは、いつでもグレースを地獄に叩き落すことができる権利を持った、ということである。絶対的権力は絶対的に腐敗するとか言うが、これはまさにそれだろう。
(劇中で住民の1人が、「人間も犬と同じで、エサを与えられれば腹が破裂するまで食う」と言った。グレースを思い通りにした彼は、まさにそれを体現したことになる。とかしたり顔で指摘しておいて、単なる伏線のような気もするが)
多くの人間は、きっかけさえあればいつでも傾く。自分のことを「いい人」だと思っている人のほとんどは、たんに自分が「いい人」であれる環境が整っているだけである。そんなことを思い知らされる。
(この映画をみてかなり不快になった人もいるんではないか。そんな人は、いい事をするときいい人を演じている自分を意識して照れたりしないんじゃないかと思うがどうか。かなり乱暴な思い込みだけど)。

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問題のラスト。とうとうギャングがグレースを「迎えに(捕まえにではない)」、そしてグレースがギャングのボスの娘であることが明らかになる。
グレースは父に向かって、「村の人は悪くない。ただ弱かっただけだ」と素晴らしい「寛容さ」を見せる。ドッグヴィルの住民が失った寛容さを、グレースは最後まで持ちつづけていたのだ。だがそれは「傲慢さ」でもあると父に諭される(というか批判される)。
グレースが父から逃げたのは、己の傲慢さを恥じたためであった。そしてドッグヴィルでは徹底して以前の傲慢さを排除し、村人に寛容でありつづけた。しかし父は「全てを許すなんて、それほど傲慢なことはない」と言う。
住民は、グレースをいつでも地獄に叩き落せる権利を持っていたが(それも勘違いではあったが)、グレースもまた住民を地獄に叩き落せる権利を持っていた。持ちつつ、住民を許していた。いつでも使えるジョーカーをずっと伏せていた、そんな余裕。それはきっと傲慢。
その傲慢さを捨てるためにグレースは手持ちのジョーカーを使う。そしてこれからも使いつづけることを誓った、のではないだろうか。次期ギャングのボスとして。


徹底して寛容になろうと思ったなら、いい人になろうという覚悟があるなら、はじめからジョーカーを破り捨ててしまう必要がある。それを実践するのはとても難しいだろう。実際のカードとは違い、この手のジョーカーはいつだって復活してくるから。