ぼくは認めない

去年の12月、つまり一ヶ月前だが、あの頃はよく寒さを話題にしたものだった。誰かに会うたび、今日は寒いねぇ、昨日より5度も低いらしいよ、とか言っていた。だが今は、寒さを話題にする事はほとんど無い。まさか、暖かくなったからではない。むしろあの頃よりもっと寒いくらいである。なのに話題にのぼらない。
これは、冬になじんだからだとか、そういう、寒さに慣れたという面でいちいち寒いと言わなくなったというのもあるかとおもうが、最近あまりに寒すぎるから、それについて喋りたくなくなった面もあると思う。このひどい寒さを直視したくないという気持ちがあるのだ。ぼくはそれが確かにある。寒いときに寒いと言いたくない。ああ、さいきん、本当に寒い。どうにかなるんじゃないかというくらいに寒いなあ。
ところで、今ぼくがこうやって、寒い寒いと言えるのは、家の中だからである。外へ出たら、寒いの「さ」の字すら言いたくない。だから、今頃は、坂下君のことを「カシタ君」と呼ぶ(いつもそう呼んでいるような気もする)。斉藤君は紛らわしい事になるので、できるだけ呼ばないようにしている。
そうやってぼくは寒さから必死に目をそらそうとしているのだが、これは同時に、寒さを強く意識してしまっているという事でもあると思う。何かを語った後、「どうでもいいけど」と言って締めくくる人がいるが、その話が自分にとってどうでもいい問題だという判断をするレベルまで浮上した、という意味でどうでもよくないのと同じで、とにかくそれが「問題」になっているのだ。
今しっかりと、自分の例え能力をうたぐっているところであるので、次回からはちゃんとなるとおもう。
とにかく、寒さの場合だが、どっちにせよ意識しているのだから、いっそのことそれを(寒さを)受け止めてしまえばいいと思う。実際そうしている人をよくみかける。このくそ寒いのに、「寒い寒い!」と言っているのだ(当たり前なのだが)。せっかくこっちが寒さから目をそらしていても、そういう人がいる時は、それが無駄な努力になる。
そういうのもあって、さっさとこの寒さを認めてしまいたいのだが、性分というものがあって、ぼくはどうやら、「認めない方式」で苦痛を耐え忍ぶ方らしいから、むずかしい。「強く認める方式」で、耐えるというか、その苦痛を発散してしまう人は、暑い時に「暑い」と言い、まずいものを食った時には「まずい」というのだとおもう。ぼくはというと、両方の場合とも、黙っていると思う。