また今日も休み

もちろんお風呂は木曜の朝から入っていない。このまま月曜の朝まで入らないかもしれない。
今もそうだが、僕はお風呂に入るのが嫌いだった。お風呂に入っている時間がもったいなかったのだ。といってもお風呂に入る時間を惜しんでなにかをしていたわけではない。風呂に入るとそこでは頭や身体をあらうか湯船につかる事しか出来ない、そういう不自由が嫌だったのだ。歯を磨いている時に、今は歯を磨く事しかできないのだという不自由から逃れようとして、さっきまで全然時間余ってたのに、歯を磨きだしたとたん片手で掃除をし出したり、禁止されているというだけでやたら学校でジュースをのみたくなったりした人はこの気持ちをわかってくれるような気もするがどうだろうか。
いや、そんなにわかってほしいわけでもないのだが(それわかるわかる!と言われても困ると思って付け足しておいた)。

今まで何をしていたわけでもないのに、何もできない状況下へ置かれると焦る。すこし滑稽かと思う。何もしていないという状況でも、この先も何もしないというわけではないから急に何もできなくなると困るのだろう。そう考えると、先の事を考えてない人ほどそういう傾向があると思われる。
例えばこれから先の予定として「拙者、これから2時間はぼーっとするでござる」という予定をたてていれば、いきなりどこかへ監禁されても、たとえ片手が歯ブラシでふさがっていても動じる事はない。なにしろ2時間はぼーっとすると決めているのだ。焦るなら2時間後にすればいい。2時間後「拙者これから犬の散歩タイムでござる!ここから出してたも!」これはこれで、2時間たった後の予定を決めていないということでだめだ。どうしたらいいのか。少なくとも、「拙者、一生ぼーっとするでござる」は避けたい。これではただの馬鹿である。

僕がこれだけこの問題について考えるのは、お風呂に気分よく入りたいからである。どうせ週に4日は入らなくてはいけないのだから、それを覚悟しなくてはいけない。覚悟ができないと何ごとも苦痛である。
覚悟覚悟。風呂の中ではテレビもみれないしパソコンもさわれない。それを覚悟してから風呂に入るように。
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なんだかどうでもいいことを書いてしまったという思いだ。暇なのがいけない。こんなものを書いて暇をつぶしているのはどうも歪んでいるような気がしてくる。まだ見ていない映画や本があるというのに。しかし、それを歪んでいると判断する基準になっている僕の「歪んでいない観」が歪んでいるに決まっているので、何も決められないということになる。のんびりやろう。しかし「のんびり」という言葉は嫌いである。積極的に嫌いである。いやでも、ある人がある目的に使った場合においてという限定がつく。