日記

僕の家は大学と駅の間にある。そして割と駅寄りだ。
その駅はだいたい一時間に一本くらいしか電車が来ないので、乗り遅れると大変な事になる。どう大変かというと、学校へ行くための電車に乗り遅れたなら確実に授業に遅刻するだろうし、家に帰るための電車に乗り遅れたなら、みたいテレビを見逃したりするかもしれないし、彼女とのデートに遅刻するかもしれない。だがテレビはビデオに撮ればいいし、デートに遅刻したくなければその場で彼女に電話をして「性格の不一致」を理由に別れを告げればよい。彼女は永遠に待ち合わせ場所には来ず、結果自分が遅刻するという事態にはならない。なんにでも解決策というものはある。それをするかしないかは各自の判断に任されている。彼女なんていないよ、という人はいくらでも電車に乗り遅れてかまわないだろう。羨ましい限りである。あとはビデオでもセットしておけば君の電車通学ライフはオールOKだ。てめえ言いたいことはそれだけか。ウアッ。

次の電車がくるまで一時間も待っていないといけない退屈というのもあるだろう。しかしこれは各自の努力によりいくらか緩和が可能だ。ウォークマンを持ってくるとか、文庫本を持ってくるとか、あるいは人間観察をするという人もいるかもしれない。
唐突だが、人間観察をする人は2通りに分けられる。「趣味は人間観察です」と公言する人と、だまって観察する人である。本当に人間観察をしたいのなら、それを観察対象に公言してしまうというのはあまり賢明な判断とは言えないだろう。変にかまえられてしまっては、対象の自然な行動を観察できないからである。自然な行動を観察したければ、こちらが観察しているという事を対象に悟られずに観察できるようにしなくてはならない。それか、対象が観察されているということに慣れるなどして、観察されているとわかっていても対象が自然な行動をとれるような状態を作らなくてはならない。この点はフィールドワークと同じだ。ひきこもりのドキュメント番組などで、「最初は緊張していたA君も、3日目にはカメラを意識しなくなった」とかいうことを言っているやつがあるが、そういうことだ。僕の説明が悪くてもなんとなくわかって欲しい。願いである。切なる願いとでもいおうか。
なので、ここから導かれる(どこから?)仮説として「趣味は人間観察です」と公言する人は、実際は人間観察できていないというものを立てよう。いや、できていないというのは言い過ぎか。少なくとも自分が観察したいと思った人間にだけ、自分の趣味が人間観察だということを知られなければいいだけの話だ。ここは少し抑えて、「趣味は人間観察です」と公言する人は、根っからの人間観察人間ではないということだ。僕くらいの人間ウォッチャーになると、あらゆる場面であらゆるひとが観察対象となるので、誰にも僕がウォッチャーだと言うことを知られるわけにはいかない。そう、僕は根っからの人間観察好きなのだ。あ!しまった・・・。
BGM: SURFACE ジレンマ

なんとなくこれで終わりにしようとしたのだが、この日記の最初の一文をみてほしい。
「僕の家は大学と駅の間にある。そして割と駅寄りだ。」
これ↑である。今読み返してみて、最初に書こうとした事を思い出した。
1本電車に遅れると大変なので、大学から走って駅に向う人たちが大勢いるのだが、たまにその人たちにまじって僕も一緒に走るということを書きたかったのだ。僕は彼らに混じって全力で走って、たまに彼らを追い抜いてそのまま自分のアパートへ駆け込むこともある。そういうときはなんだか怖くて後ろは振り向けないが、おもしろいのでやめられないのだ。バカだと思われてはいないだろうか。