リレー事件

徒競走の話です。僕は、「よーい、ドン」が鳴るまで、これから全力で勝負して負けることの覚悟ができない子供でした。負けるのは明らかにわかっていて、それは悪い事ではないのに、それをどのように処理するかを考えていました。言い換えれば正当化です。正当化をして心のバランスをとる事を、緊張して混乱している頭で考えていました。僕は勉強ができるからいいんだ、等の無茶なものです。そんなもので自分はだませませないのはわかっていましたが、これは「混乱していること」にバランスをとるために、そうせざるを得ない感じでした。
しかし勝負が始まると、勝つことしか考えていません。手の振りは腰より前で、地面は思い切り蹴る、などの先生が教えてくれた速く走るコツを実行します。でも、負けます。僕より足が速い人がいるからです。なんてわかりやすいんでしょうか。「頭がいい」なんてことより死ぬほどわかりやすい。死ぬほどわかりやすく勝負がつくことは、負けると死ぬほど悔しいから、僕は運動をするためにバスケット部に入部しました。中学一年生の時のことです。2年後に1度だけ、徒競走で1番になれました。ちなみにバスケット部に入る前は囲碁・将棋部に入っていました。
僕は1度だけ、ビリになるのが明らかにわかっているリレー(僕はリレーの選手に選ばれたのです)で、わざと負けたことがあります。無理やり選手に選ばれたのだ、走るのは本意ではないのだ、という外的な言い訳要因がそろったのもあって、本気で勝負して負ける事を回避するために、わざとまけました。それは傍目から見ても明らかにわかる「ワザと」でした。どう「ワザと」かというと、僕は自軍の応援団から大非難をあびながら、トラック一周をほとんど歩いて回ったのです。これも中学生の時の事です。
歩きながら何を考えていたかというと、やはり、自分を正当化する論理のみです。俺を走らせたお前等が悪い、お前等が走れば良かった、走っても負けるんだからバカらしい、等々。その時自分以外の人が嫌いでした。やはり「嫌い」という評価を下すのは。それで自分が得をするからだと思います。
このリレーのあと、教室で僕はまた大非難をあびます。女子は全員僕の敵です。女は全員同じだと思いました。実際その時はそうでした。男子は友人1人を残して、敵でした。しかしただ無視をされただけなのでマシでした。しかしこれらの現象は、僕が彼らを「嫌い」と評価できる理由になってくれたので、むしろ僕の精神の安定には好都合でした。事実僕は女子の集団に何を言われてもほとんど動揺することは無く、涙を流す事もありませんでした。
教師も僕の行動について非難しました。これで教師(つまり「大人」全部)を嫌いになる理由もできました。このへんから僕は僕以外の人間をどこか馬鹿にしながら生きていくことになるわけです。
このリレー事件以前からそういう傾向は多分にあったのですが、この事件によって表面化し、そのスタンス{「スタンス」は僕の精神安定に有効で即効性アリ、とどこかでわかっていたので、それを取り込んだ。あるいは「敵」がいた(少なくともそう評価していた)ので、即効性のあるそれをすぐに取り入れる必要があった。つまり、それまでの僕の人生経験および個人の性質として、精神的な葛藤にそれをすぐに取り込まざるを得ないほど弱かった}を自覚し、それを続けようという決意をしたような気がします。
そして僕の頭の悪いところは、具体的な敵が周囲から消滅したにもかかわらず、そのスタンスをとりつづけたことです。そのせいで僕の精神的な成長、多くは「タフさ」についてですが、それが妨げられます。
スタンスを続けたのは自分のためだと気付きはじめたとき、自己嫌悪は待っていました。これはよくありませんでした。何しろ自分が嫌いなのです。逃げるところはありませんでした。
しかしそうは思いつつも、瞬間瞬間の精神の安定は必要なため、スタンスは使用されつづけます。この循環をどうしたら抜けられるかというと、瞬間瞬間の精神の安定を捨てるしかありません。当時の僕にはそれしか思いつきませんでした。自己嫌悪をしてなおスタンスによる精神の安定を放棄した結果、すぐに、自殺をしたいという意思は発生しました。
自殺を回避するために、限界が来るとスタンスによる精神の安定を使用します。その度に最大級に自己嫌悪が発生し、その結果、自殺をしたくなります。そしてまた回避するためにスタンスを使用しますが、使用し続けるたびに限界のくるペースは早くなります。ここで本当の限界が訪れるわけです。
その時僕が何をしたかというと、それは恋でした。寝ても覚めてもその子のことしか考えていません。そのあとどうなったかは、僕は知っていますが、皆さんは知らないと思います。

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実家で卒業写真や文集などを読んでいたら、当時の僕は僕じゃないんじゃないか、という発想が湧いた。だが、事実とは違う。それが今、関係なくなった。「たしかに僕ではない」と完全に錯覚したからだ。つまり、決別した。