ネタ

日記サイトなどでよく、「ネタがない」とぼやいている人がいるが、本来ネタというものは自分の頭にしかないものだ。なぜなら情報は取捨選択されており、じぶんが「これは!」と思ったものがネタになっているからだ。その点で言うとやはり、何をネタにするかは自分の脳味噌にかかっていると言える。どの情報を拾うか、拾えるか、ネタにできるかが重要なのだ。
その日1日に現れた現象としての体験がしょぼいものだったとしても、いろいろと妄想を膨らませる事が日記を書きつづける事で重要だ(「重要だと思います」と「思います」と書いてしまうと記述のテストでは0点になってしまう(特に理系で)ので、無くしていこうと思う)(せめて「〜と考える」と書いたほうがいいはずだ。これでも試験では0点だろうが。文系ならありだろうか。不明だ)
たとえば、まちがってのみこんでしまったタンについて1000字以上書けるようでないといけない(何が?)だろう。僕は書けるが、今回は遠慮しておく。なぜならネタがあるからだ。今日はそれを使わせていただく。

  • セカチュー

「世界の中心で、愛を叫ぶ」のことだ。今これを書いて、すぐに浮かんだのは「ピカチューに似ている」という事だ。しかし、これは情報の取捨選択からいうと捨てるべきものだ。ネタにするべきではない。しかし、「セカチュー ピカチュー」でgoogleで検索をかけるとなんと1,740件もヒットした。http://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=SJIS&oe=SJIS&q=%83Z%83J%83%60%83%85%81%5B%81%40%83s%83J%83%60%83%85%81%5B
「なんと」と言うよりも「予想通り」の方が正直かもしれない。「新しいポケモンかと思った」と書いている人もかなり多かった。猛省を促したい。
それでは本題に入る。ここからが「ネタ」だ。
このあいだ電車の中で、「昨日セカチュー見た〜?」と言っている女子高生を目撃したのだ。
その照れの無さと言ったら、見事だった。僕は、流行に乗るという事への抵抗感のあまりの無さにびっくりしたのである。彼女のその発言の様子といったら、実に堂々としていていて、なんだか「時代」の強さを感じた。よく、理解が不可能な他人に対して「人種が違う」などという人がいるが、僕と彼女は明らかに人種が違った。森博嗣的表現で言うと、思考がトレースできない。
「セカチュー」は「冬のソナタ」を「冬ソナ」と略すのとはまた違ったもので、それを言うか言わないかで時代の壁が分かれるのではないだろうか。踏絵である。細川ふみえとは違う。それにしてもフーミンとムーミンて似てる。