僕の住んでいるところは田舎

僕の住んでいるアパートと大学は近い。徒歩で約8分だ。そして周り一帯田んぼだらけで、田舎と言っていい場所だ。まずはこれを頭に叩き込んでもらいたい。

授業は始まってみると案外と、本当に、予想外に、苦痛ではなかった。一瞬にして臨戦体制に切り替えることができたからだろう。つまり、ショック(つまらなさ等による苦痛)に備えたわけだ。そういえば、今日大学に来た時、あまりにも人が少ないので、もしかしたら来る日を間違ったのかと思った。それで間違えたら間違えたで図書館で新聞でも読んで帰ろう、と、すでに「どうか間違いじゃありませんように」という願いを諦めてショックに備えた。いつのまにかこのような「諦め」によってショックに備える習性ができてしまっているので悲しい。悲しいと言うのは口だけで、こんなことで実際悲しんだことは無いが。
ところで、このあたり一帯はさえぎる物が無いせいか、夕日がとてつもなく綺麗だ。海が近いからかもしれない。僕はこの夕日を見るのが好きなのだが、困ったことに、日が沈んでしまうと見れない。そんなことは当たり前なのだが、とにかく日が沈む時間が重要になってくる。その時授業中だと見ることができないからだ。
今日の夕日ベストタイムは、だいたい午後5時30分だった。なぜこのように正確に覚えているかというと、僕はその時教室で授業を受けながら窓の外を眺めていたからだ。その教室の窓から見えるのは夕日が当たっている別の校舎だけだったし、しかもブラインド越しであったので、あまり満足の行く夕日観賞にはならなかった。今日の授業は午後6時までなので、しっかり夕日を見るにはそれ以降に夕日が沈んでくれないと困る。学校から帰る時間とベストオブ夕日タイムが重なった時は、人生におけるささやかな幸せを感じることができるのだ。
ところで僕は、枯葉を踏むのに目が無い。と言ってもそのためにお金を出すとか生活を狂わす羽目になるような漫画に出てくる典型的なバカみたいな事はしないと念を押しておく。あの、カサカサになったのを踏みつけた時の感触と音がきもちいいのだ。氷を噛み砕く快感に似ていると思う。もっと似ているのは「水たまりが氷になったのを踏む事」があるが、あれは似すぎているので外しておいた。どうみても谷亮子にうりふたつの女性に対して、「君って地蔵様に似てるよね」と言うのと一緒である。実はそうでもない。というかもうこれは無いことにして続きを書く。
朝、大学に出かけるときに踏みつけた枯葉達はギラギラと照りつける太陽に水分を奪われており、気持ちいい音をたててくれたが、大学から帰るときに踏みつけた枯葉達は夕暮れの湿った空気のためにその魅力の大本である乾燥を失ってしまい、しなっ、っと全く手ごたえの無い感触しか返してくれなかった。朝にもっと踏んでおくべきだったと、「後悔」と表現するにはやや動機の足りない感情をもったのであった。END