達者で暮らせよ

コロナ(猫)を実家に置いてきた。
猫を飼っているのが職場の人(全員ではなく、割と仲の良い人たち)にばれてから、ある1人の人に、「大家にばれたら追い出されちゃうぞ」と言われ続けてきた。それでも、ぼくがなかなか猫をどうにかしなかったので、ついに、その人から、猫をぼくの実家に送ってもらうことになった。
「実家に帰るついでだ」と言っていた。ぼくの実家は、職場と、その人の実家との間にある。休みもちょうど一緒だったので、この日しかないと思ったようだ。ちょっと他人事な言い方だが。
ぼくは別に、早急に猫をどうにかしなければならない、とは思っていなかった。しかし、その人はぼくが大好きな人なので、しばらく二人きりになれるなら、と思って提案に乗ったのだ。向こうも、その辺の事はわかっているかもしれない。ぼくはまだ、彼女の誘いを断わったことは、一度も無い。どんな小さな事でもだ。
その日。後部座席に子供が1人乗っていたので、2人きりではなかったが、とても楽しかった。実家には何も伝えていなかったが、猫は大歓迎をうけ、不服そうだったのはシロ(猫)だけだった。シロは以前見たときよりも大分太っており、体を丸めて、ぼくが聴いたことの無い唸り声を出していた。それにかぶせて、「わたしゃ認めませんからね!」とか、「なによ、ちょっと若いからって」などとやって、たまたま実家に帰ってきていた弟と一緒に遊んだ(ひどいかもしれない)。
コロナが実家で歓迎を受けたのは、単純に可愛かったからだ。しっぽが長いねぇ、小さいねぇ、と可愛がられ、しょっちゅう、お腹が空いたんじゃないか、眠いんじゃないか、と気にかけてもらっていた。子供が可愛いいのは守ってもらうためだというが、コロナは意図せずそれを体現していた。
では、可愛がるのは何のためか?考えたことは無いだろうか。なぜ小猫に餌をやってしまうのか、なぜ、赤ちゃんの泣き声を聞くと切なくなって、助けてあげたい、と思うのか。そうしないと、弱い子供は生きていけず、世代が途絶えてしまうからか?しかし、それでは説明できないところでも、なんでもしてあげたい、という気持ちは生まれる。別に、弱いものだけが可愛いいわけではない、というだけのことだろうか。
ぼくは、もう充分に大人で、強くて、1人で生きていける人に、なんでもしてあげたいと思っている。実際は助けてもらってばかりだが(今回のように)。