「同情」のしくみ

悩みを抱えている人に「悩みのない人などいないよ」と慰めることはあっても、タンスの角に小指を打ち付けた人に、「タンスの角に小指をぶつけない人はいないよ」とは言えない気がする。仮に言ってもビタ一つ慰めにはならないだろう。
人生に悩んでいる人などには、「悩まない人はいない。俺だって悩んでるんだ」と言ってあげることが、その人を悩みから解放させる助けになると思う(じっさい、そういう歌は多い)。
だが、今まさに痛みにもんどりうってる人に対して、「俺だってぶつけたら痛いんだぜ」と言ったって、その人の痛みが解放されるとは思えない。仮にぼくがそういう時に何か言われるんであれば、「ご飯を奢ってあげよう」とか「お金をあげよう」と言われた方が、はるかに痛みが和らぐ気がする(お金がもらえるんならわざと痛くしてもいい)。



「俺もそうだよ」
という同情による慰めができるかできないかは、『今』同情できるかできないか、にかかっているのではないか。たとえば、貧乏な人に同情してやれるのは、「今貧乏な人」である。そして、今痛がっている人に同情できるのは「今痛い人」である。同情してやろうと思ったら、速やかに、自分の体をどこかにぶつけてやる必要があるのだ。
すべての同情はそういう性質をもっているのではないか。痛みに呻いている者に同情できるのは痛みに呻いている者であり、持たざる者に同情できるのは持たざる者だけである。
いや、できないという訳ではない。想像したり、過去に苦しんだ経験を元にして、いくらでも同情はできるだろう。ただそれが慰めになるかどうかは別の問題なのだ。
きっと、同情された側も同情したいのだろう。そのためには、お互い同じ境遇でないといけない。「傷を舐めあう」という言葉があるが、これは、お互いが同情しあうということだ。
同情はされる側に効果があるのではなく、する側に癒しの効果がある。その証拠に、世界には同情を誘発するものが満ち溢れている。その多くは、お金をもらってやっているのだが。


お金をもらわずにあえて同情されているボランティア精神あふれる人もいる。ぼくなど。